紫式部って何者? 京都の占い処
紫式部を通してみれば平安貴族の日常は分かります

紫式部の生没年・氏名
生没年
当時の受領階級の女性全般がそうであるように、紫式部の生没年を明確な形で伝えた記録は存在しない。そのため、紫式部の生没年については複数の説が存在しており、定説が無い状態であり、生没年は不詳である。
紫式部の生没年
今も不明な平安時代の女性の境涯
平安時代の貴族階級の女性は当時の慣習で実名(諱)を公にしない場合が多い。紫式部をはじめ和泉式部などの名称は通称であり、実名はいずれもわかっていない。
宮中での女房名「藤式部」は、父藤原為時の官位(式部省の官僚・式部大丞)に由来する説と、同母兄弟・藤原惟規の官位に由来する説とがある。
ところで現在一般的に使われている「紫式部」について、「紫」のような色名を冠した呼称は同時代には珍しかった。そのため理由については様々な推測がされている。一般的には、「紫」の呼称は『源氏物語』の作中人物「紫の上」に由来すると考えられている。
紫式部の境涯
境涯
ところで紫式部は幼少の頃より漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。長徳4年(998年)ごろ、なんと親子ほども年の差がある又従兄妹、山城守・藤原宣孝と結婚する。長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けた。この娘も『百人一首』『女房三十六歌仙』の歌人として知られる。しかし、この結婚生活は長くは続かなかった。長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別した。そして『紫式部集』には、その心情を詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている。
紫式部と源氏物語
ところで『源氏物語』の執筆時期は不明である。しかし箒木三帖は具平親王家をモデルに書いたといわれている。のちに藤原道長に召し出され、おそらく寛弘2年12月29日(1006年1月31日)、もしくは寛弘3年12月29日(1007年1月20日)より、一条天皇の中宮・藤原彰子(道長の長女)に女房として仕える。
女房名は藤式部(とう の しきぶ / ふじ しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたとされる。さらに彰子の家庭教師としての役割も果たしたとされる。さらには少なくとも寛弘8年(1012年)ごろまで奉仕したようである。またこの間、大量の料紙を提供されている。さらにこれで『源氏物語』を書くことを依頼されたと考えるのが自然とされる。さらに物語が当時女・子供の読み物であったことから中宮彰子のために藤原道長が想定されている。
紫式部と藤原道長
なお、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として紫式部が出仕した可能性が指摘されている。『源氏物語』解説書の『河海抄』『紫明抄』や歴史書『今鏡』には、紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。
ところで傍証として、永延元年当時は為時が散位であったこと、さらに倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たること。『紫式部日記』には、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮がうかがえる。
紫式部と清少納言
平安文学を代表する二者、活躍していたのもほぼ同時期とあってひょっとしてライバル関係では?と思われる方もいるはず。さて、この辺りはどうなのか?
二人の出自
紫式部は、藤原氏の傍流の家に生まれ、漢籍にも通じる学者の父から高い教育を受けました。一方の清少納言は、経済的に恵まれない中流貴族の家に生まれ、父は和歌の名手でした。彼女たちは同じ一条天皇の宮廷へと導きますが、しかしその足跡は交差することなく、並行線を描いていきます。
紫式部が仕えたのは、藤原彰子。清少納言が仕えたのは、藤原定子。
この二人の皇后は、それぞれの父である藤原道長と藤原道隆の権力争いの中心にいました。二人の才女は、対立する勢力の中で、それぞれの文学を花開かせたのです。
二つの文学
『源氏物語』は、光源氏という主人公を中心に繰り広げられる長編小説です。紫式部の筆は、登場人物たちの内面を繊細に描き出し、愛と喪失、無常という仏教的テーマを深く掘り下げます。そして優雅で叙情的な文体は、平安貴族の心を丁寧にたどっていきます。
一方、『枕草子』は、清少納言の鋭い観察眼と機知に富んだ言葉で綴られた随筆集です。「春はあけぼの」から始まる美しい季節の描写。「うつくしきもの」「にくきもの」といったたとえ。宮廷での出来事の生き生きとした描写は、平安時代という遠い世界を現代に伝えてくれます。
ところで紫式部が三人称で物語の海に潜り込むなら、清少納言は一人称で宮廷生活という陸地を颯爽と歩き回る——そんな対照的な姿が浮かび上がってきます。
紫式部のジレンマ?
最も興味深いのは、紫式部の日記に残された清少納言への言及でしょう。
「清少納言は、漢文を書き散らして、人に誇る者なれど、よく見れば、まだいとたらぬことなむ多かり。」
知識をひけらかす清少納言の態度に、紫式部は厳しい眼差しを向けています。もっとも、この批判の背景には、才能ある女性同士の複雑な感情があったのかもしれません。
清少納言は自らを「奇妙であろうと不快であろうと、頭に浮かんだことをすべて書き留める」人物と描写し、その自由奔放な性格は『枕草子』の鮮やかな印象と重なります。現代に例えるなら、紫式部は深い洞察力を持つ内向的な小説家。清少納言は鋭い観察眼と機知に富んだエッセイストのような対比でしょう。
ふたりの巨星文学は今もなお生き続ける
二人の才女は、おそらく生涯をかけて一度も会うことはなかったでしょう。しかし、彼女たちが残した作品は、千年以上の時を経て、今なお日本文学の最高峰として輝いています。『源氏物語』は世界最古の長編小説の一つとして、後世の作家たちに深い影響を与え続けています。能や歌舞伎など、さまざまな日本文化の源流となりました。そして『枕草子』は、日本の随筆というジャンルの先駆けとなり、その鮮やかな描写と機知に富んだ文体は、女性の視点から見た平安宮廷生活の貴重な記録となっています。
平安の夜空に輝く二つの星——紫式部と清少納言。彼女たちは遠く離れた位置でも日本文学に永遠の軌跡を描き出しました。一人は内面の機微を紡ぎ出す叙情的な物語作家。もう一人は外側の世界を鋭く切り取る観察眼を持ったエッセイスト。しかし二人の存在があったからこそ、平安文学は多様性を持ち、私たちに響き続けているのです。
ところで彼女たちの生きた時代は遠くても、描かれた感情は現代の私たちの心にも共鳴します。平安の星空に輝く二つの光は、これからも私たちを魅了し続けることでしょう。
紫式部の墓所
紫式部の墓と伝えられる古蹟が京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されている。小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている(『河海抄』の記述に合致)。この場所は淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われる。後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。


