平等院にようこそ 宇治の占い師ゆめのうきはし

平等院鳳凰堂 占い

平等院にようこそ 宇治の占い師ゆめのうきはし

店長は平等院で修業らしい

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平等院鳳凰堂

「あれ、大将は?」

「店長ならいつものところ、平等院ですよ」

「じゃあ行きますか」

「いつものところってどこですか?」

「平等院さ。大将はいつも暇な時はそこで鍛錬している。」

そして平等院……

「大将、大将!お客さんやで。大将に見てほしいと言うことや。」

「ほう、こちらの青年ですか。私は占い処の店長、ゆめのうきはしと申します。うん、なかなかいい目をしてらっしゃる。」

「いつもここで修業をしているんですか?」

「そう、最近は忙しくて修行の時間を取るのも大変だが暇な時間はできるだけ作らないようにしているよ。」

「母が倒れたのですがその具合を見に来たんです。」

「うん、それはさっそく見てあげないとね。では、最近西洋から入ってきた『タロット』、これを使って占ってみよう。」

タロットを使った占いに店長は平等院で入る

「あの、僕名前も名乗っていないですが大丈夫ですか?」

「大丈夫、名前がなくても君の姿を見ればできる占いだから。」

店長はカードを切ると1枚のカードを引いた。

「おお、これはすごい、『世界』のカードだ。大丈夫、君のお母さんなら無事だ。それより君がたどり着いたか心配している。」

「このカードで占うことができるんですか?」

「そう、不思議なものでの。万能とは言わないまでも大多数のことはできる。おまけに占いの速さも早いからお客さんを待たせずに済む、便利なカードだ。」

「店長、そろそろ時間です。」

「おっとそうだった。詳しい話はあとで、と言うより君もインタビュー会場に行こう。」

「えぇ?僕もですか?」

相槌打つまもなく青年はゆめのうきはしと名乗る店長に連れられ、インタビュー会場に向かった。

◎平等院について

◎平等院について

平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市宇治蓮華にある単立の寺院。山号は朝日山。本尊は阿弥陀如来。開基は藤原頼通、開山は明尊。

宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属しておらず、塔頭である本山修験宗聖護院末寺の最勝院と浄土宗の浄土院が年交代制で共同管理している。

ただし鳳凰堂(国宝)で世界に広く知られている。さらに平安時代後期にあたる11世紀以来保持されてきた数々の建造物を中心とする寺宝と文化財は、往時の思想・文化を今に伝える。また、1994年(平成6年)に登録されたユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成物件の一つでもある。

京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、さらに平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。

◎平等院建立までの道

しかし道長は万寿4年(1027年)に没するが、その子である関白藤原頼通は永承7年(1052年)になり、末法の世が到来したこともあって、宇治殿を寺院に改めようと考えた。そして、その開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、天台宗寺門派(現・天台寺門宗)で、園城寺長吏を務めて京都岡崎(現・京都市左京区岡崎)の平等院の住持となっていた明尊大僧正とした。

こうして、宇治の平等院は園城寺の末寺として創建された。さらに、境内の西にあった縣神社を鎮守社としている。本堂(金堂)は、ただし元は宇治殿の寝殿でそれを仏堂に改造したものである。しかし現在観音堂が建っている場所にあり、大日如来像を本尊とした。ただし翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立されている。しかし延久6年(1074年)、頼通は当院で亡くなっている。

◎平等院建立の背景

平等院が創建された平安時代後期になると、日本では末法思想が広く信じられていた。末法思想とは、釈尊の入滅からただし2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災・人災が続いた為、人々の不安は一層深まり、終末論的思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的思想として捉えられるようになる。さらに仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。

◎宇治に生き残った平等院

平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。藤原道長は寛仁4年(1020年)、無量寿院(後の法成寺)を建立し、また、11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の六勝寺(法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺)が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物・仏像・壁画・庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。しかし、その平等院も昔からのもので残っているのは鳳凰堂のみとなってしまっている。

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