源頼政・以仁王について 平安時代の終焉
頼政・以仁王をきっかけに源氏が立ち上がった

平安時代、貴族の華やかな時代も未来永劫に続くものではありませんでした。末法思想の広がりに沿うように地方では武士が権力を握りその流れは平安の都にも押し寄せてきました。何もできない貴族に変わって権力を握ったのは武士でした。しかし平氏が権力を握ると貴族と同じような生活を送り平氏に対する不満は噴火寸前でした。その中でいち早く平氏に牙をむいたのは源頼政、以仁王でした。
源頼政・以仁王について
源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。清和源氏としては初めて従三位に叙せられた。保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され推挙により、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。
以仁王の挙兵・頼政の反乱
この頃、平氏政権と後白河院政との間で軋みが生じていた。治承元年(1177年)に鹿ケ谷の陰謀事件が起きて法皇の関与が疑われた。そして、治承3年(1179年)11月、法皇と対立した清盛は福原から兵を率いて京へ乱入して反乱を断行した。院政を停止して法皇を幽閉する挙に出た(治承三年の政変)。翌治承4年(1180年)2月、清盛は高倉天皇を譲位させた。そして高倉帝と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させた。
これに不満を持ったのが後白河法皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)(高倉宮・三条宮)である。以仁王は法皇の妹・八条院暲子内親王の猶子となって皇位への望みをつないでいた。しかし、安徳天皇の即位でその望みが全く絶たれてしまった。そして頼政はこの以仁王と結んで平氏政権打倒の挙兵を計画した。
以仁王の令旨
同年4月、頼政と以仁王は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒を呼びかける令旨を作成し、源行家(為義の十男)を伝達の使者とした。だが5月にはこの挙兵計画は露見、平氏は検非違使に命じて以仁王の逮捕を決めた。だが、その追っ手には頼政の養子の兼綱が含まれていたことから、まだ平氏は頼政の関与に気付いていなかったことがわかる。以仁王は園城寺へ脱出して匿われた。5月21日に平氏は園城寺攻撃を決める。しかし、その編成にも頼政が含まれていた。その夜、頼政は自邸を焼くと仲綱・兼綱以下の一族を率いて園城寺に入り、以仁王と合流。そして平氏打倒の意思を明らかにした。
宇治川の合戦・平等院の合戦~頼政の死
26日に合戦になり、頼政軍は宇治橋の橋板を落として抵抗するが、平氏軍に宇治川を強行渡河されてしまう(宇治川の合戦)。頼政は以仁王を逃すべく平等院に籠って抵抗するが(平等院の合戦)、しかし多勢に無勢で、子の仲綱や宗綱や兼綱が次々に討ち死にあるいは自害した。さらに頼政も辞世の句を残して郎党の渡辺唱(となう)の介錯で腹を切って自刃した。
以仁王は脱出したが、しかし藤原景高・伊藤忠綱らが率いる追討軍に追いつかれて討ち取られた。以仁王と頼政の挙兵は失敗した。しかし、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝・義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起した。これより治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる(この続きを知りたい方は『平家物語』を読むべし)。

頼政亡き後
源頼政の子孫は、源頼朝に仕えて源平合戦で活躍し、その血筋は戦国時代から明治時代まで受け継がれました。彼の生涯は、平安時代の武士の姿や当時の政治的混乱を知るうえで貴重な事例です。頼政は武士としての地位を築きました。しかしその子孫たちはそれぞれ異なる道を歩みました。中でも戦国初期の英雄・太田道灌をはじめ、各地で功績を残し、その血脈を明治まで伝えています。頼政は朝廷との関係を重んじ、政治的な駆け引きにも長けた知略の武士だったと言えるでしょう。

